巷でいわゆるインパール作戦とはなんぞや?
大東亜戦争中の1944年1月の「ウ号作戦」のことをインパール作戦と呼んでるらしい。
ウ号作戦=印度解放作戦=ヒンド独立戦争 私達は日本兵がヒンド解放の為に戦ってくれた事をよく知っていました
これがウ号作戦の指令原本
発送番号 大陸指第一七七六号 発送月日 昭和19年1月7日
宛名 大陸指(案) 件名 ウ号作戦ニ関スル件
大陸命第650号ニ基キ左ノ如ク指示ス 南方軍総司令官ハ緬甸防衛ノ為適時当面ノ敵ヲ撃破シテ「インパール」附近東北部印度ノ要域ヲ占領確保スルコトヲ得
この作戦指令書によれば「インパール付近東北部印度の要域を占領確保すること」とある。
インパール付近の東北部なのか、印度の東北部なのか紛らわしい。
この作戦はチャンドラ・ボーズの自由印度政府(Azad Hind)國民軍との共同作戦であり、印度國民軍は自由か死か!と、デリー進軍を目指していることから、印度解放作戦、印度独立戦争と呼ぶほうがふさわしい。
実際に、ヒンドの教科書ではこれがヒンド独立戦争である。
コルカタの空港の名前はチャンドラ・ボーズ國際空港。
ここには、アジアで唯一の現地村民が作った日本兵の慰霊塔があり、毎年5月20日に慰霊祭が続けられてきた。
ロッパチン村モへンドロ・シンハ村長(当時)は、この慰霊塔の建立に際し、次のように語っている。「私達は日本兵がヒンド解放の為に戦ってくれた事をよく知っていました。私達は食糧や衣類を喜んで提供しました。ところが英軍がそれを知って阻止しました。日本軍は飢餓に追い込まれましたが勇敢に戦い、次々に戦死してゆきました。この勇ましい行為はすべてヒンド独立の為だったのです。私達は何時までもこの勇戦を後の世まで伝えていこうと思い慰霊塔を建てました。この塔は日本軍人へのお礼と、独立ヒンドのシンボルにしたいのです。その為、村民で毎年慰霊祭を挙行しています」
サンジャックの戦地を確認していたところ、INA(ヒンド國民軍)の宣撫工作部隊の一員であったシーシャックさんとお会いすることができた。宣撫工作部隊が先行し、このインパール作戦の大義を現地人に説明していた。シーシャック氏は、ヒンド独立を信じ、INAの一員として日本軍に協力し、宮崎支隊の前方で作戦任務についていたのである。宮崎繁三郎中将とは、昭和19年4月にここサンジャックで会い、支隊撤退時に当地で別れたという。
目的は援蒋ルートの遮断というよりもヒンドの解放
当時の援蒋ルートは陸路によらず、ディマプールを通る鉄道の先端 Ledoから空路で支那まで物資輸送されていた。
だから援蒋ルート遮断したいのであれば、陸の孤島のようなインパールなんかよりも、鉄道路線上の要衝ディマプールを取りに行く方が優先されるはずである。
コヒマにもインパールにも鉄道は通っていない。
ヒンド鉄道路線図
ディマプール駅は1900年頃に完成している。
未だにインパールに陸路で行くためにはコルカタからディマプールまでは列車、そこからバスに乗り換える必要がある。
ヒンドをブリ帝國(British Empire イギリス)の圧政搾取から解放すること、即ち援蒋ルートの根絶にもなる。
ヒンドの独立なしにヒンドからの援蒋ルートの根絶はありえない。
補給を無視してたの? 無謀な作戦だったの ?
このウ号作戦、印度解放作戦が、「補給を無視した、無謀な作戦」などと言われているのをよく見かける。
ほんとにそうだろうか?
孫子の兵法 糧を敵に因る
善用兵者、役不再籍、糧不三載、取用於國、因糧於敵、故軍食可足也
善く兵を用うる者は、役再びは籍せず、糧三たびは載せず、用を國に取りて、糧を敵に因る、故に軍は食足るべきなり。
牟田口司令官はう号作戦発動前に、「糧は敵によることが本旨である。」と司令している。
孫子の兵法の定石どうりではないか。
ウ号作戦と牟田口廉也を語る際に、孫子の兵法の 糧を敵に因る について言及している人は皆無のようだ。
ウ号作戦のごとく補給が至難な作戦においては、ことに糧食、弾薬、兵器など、いわゆる〝敵の糧〟によることが絶対必要である。これがためには、随分放胆な作戦指導が必要である。放胆な作戦であればあるほど、危険がつきものである。
31師団はコヒマを4月6日に占領した時に、敵の兵器、弾薬、食糧等を大量に見つけている。
第一大隊主力は、険悪極まる山岳地帯を踏破して、七日以来ジョセマ附近の要地を確保して善戦していた。この大隊が日本陸軍の中で印度の一番奥地まで進攻した部隊となった。
コヒマ附近の敵は、当初一個旅団程度のもので其の陣地もアラズラ高地線を第一線とし、コヒマ周辺に掩蓋を有し簡単な鉄条網を設備した野戦陣地の域を脱しない物であった。
アラズラ高地やコヒマ周辺の各所は、未だ運搬して来たばかりの真新しい有刺鉄線を始め各種の防備資材が山積放置してあった。又、コヒマ新市街の敵の幹部用と思われる官舎地域の、混乱し退却した跡から見て、敵がわが軍の奇襲的突進に対し如何に狼狽したかが窺われた。即ち我が戦略奇襲作戦は見事に成功した。
コヒマ附近に於ける、敵の兵器、弾薬、被服、糧秣、ガソリン等の軍需品は実に莫大なものがあったが、我が軍の適切な処置を欠き、其の大部分を敵の爆撃により烏有(全く無いこと)に帰してしまったのは、わが方の補給が殆ど望みの無い状況に鑑み、全く惜しい限りであった。
佐藤幸徳31師団長はこのような「適切な処置を欠」くような事態を招いた自分自身を責めるべきであった。
Shortly before the siege of Kohima began, the Japanese had captured a huge warehouse in Naga Village with enough rice to feed the division "for three years", but it was immediately bombed and the stock of rice was destroyed.
補給については十分に研究し尽くしているのであるから無視していたことにはならない。
以下に記すように十分勝算はあった。無謀とは言えない。敵國側の関係者がそれを認めている。牟田口司令官が正しかったと。
ヒンドの解放独立のための進撃であるから、無謀などとは言えるものではない。
武力戦の勝敗にかかわらず、ヒンド独立という目的は達成されている。
戦争の目的は、目的を達成することであって、武力戦の勝敗にこだわる必要はない。
日本軍の相手方、ブリ帝國ではインパール・コヒマの戦いがブリ帝國戦争史上、最も偉大な戦いであるとの投票結果であった。
※ サンジャックの戦闘 (Shangshak, Sangshak) (3月22日~27日)は、敵を殲滅することは出来なかったが、その戦利品は膨大なものがあった。(大砲、迫撃砲、その他各種火器、弾薬、食糧、車両、軍馬等。なお捕虜は約百名)連隊はこれによって装備を強化し、食糧を補充することが出来た。「糧を敵に求める」ということが、インパール作戦における悲しい目論見ではあったが、この時ばかりは実際に目論見通りに行ったのである。しかし、それにしても大きな代償であった。我が方の死傷者は約五百名である。
サンジャックの戦いで敵軍は計画的に撤退したのか?
本格的に英印軍とぶつかってやったのは、サンジャック(3月22日~27日)が初めてでしょう。あとは前線陣地やらありましたけど、サンジャックで5日間ぐらいの戦闘があったんですよ。そのときの戦闘ってのが、英軍が2個大隊かな。我がほうの連隊長の指揮する2個大隊。まぁ互角ですね。互角の兵力。ただし、連中は陣地を作っているわけでしょう。日本軍は陣地がないわけだ。その陣地を攻めるわけですよ。そういう戦がサンジャックっていうところであったわけですね。それがインパール作戦のいちばん最初の挑戦です。うちの、58連隊のね。
第2大隊がいちばん最初ね、その陣地につかって行って、1個中隊、2個中隊がほとんど全滅しましたね。連隊長がそこに兵力を集中して、第3大隊が攻撃に参加する。2大隊、3大隊と、それに歩兵砲中隊っていうのは、砲を持ってる中隊。それが参加しましてね。そこでサンジャックの戦闘っていうのが始まったわけです。それは、夜襲に夜襲ですね。それから、砲兵が、だいたい付いて来ないんですよ。山の中だから。砲身は分解搬送でね。よっこら、よっこら、大砲を担いで、分解して、大砲を担いで山を越えてくるわけでしょう。歩兵はとにかく、足で自分が行くんだから、歩兵はどんどん前へ出るけれども、火砲が付いてこない。だから、本格的に火砲を準備して、その陣地を攻撃したっていうのは、歩兵が攻撃開始してから4、5日たってからですね。
その戦闘で英軍は完全に退却したわけです。5日間の攻撃でね。予定の退却かと思ったらそうじゃなくて、あとで向こうの将校と懇親会を開いたんだけど、英軍とね。あのときは、我々は損害が非常に大きかったから、向こうは1個旅団がおったんだけど、2個大隊で1個旅団を編成しとったんだけども、少将の方が、准将か。向こうは准将ってなるんだよ。准将の方が独断で退却をしたんだと。要するに、負けて下がったんだと。そういう話だった。こちらのほうは、それは相当の激戦だけども、完全にその陣地から英軍を追っ払ったと。だから、勝負がついたわけですよね。それは勝ち戦ですよね。
勝ち戦で、うちの損害が約500人。500人というのは相当大きな損害ですよ。英軍はそれ以上の損害を被ったんじゃないでしょうかね。ほとんど1個大隊全滅ね。日本は、1個大隊は、全滅まではいかなかったけれども、過半数損害を被って、これではとてもじゃないけれども陣地が持たないということで、旅団長の指揮する2個大隊だった。旅団長が自分で撤退命令を下してインパールのほうに下がっていった。これがいちばん最初の戦闘です。
サンジャックの戦地を確認していたところ、INA(ヒンド國民軍)の宣撫工作部隊の一員であったシーシャックさんとお会いすることができた。宣撫工作部隊が先行し、このインパール作戦の大義を現地人に説明していた。シーシャック氏は、ヒンド独立を信じ、INAの一員として日本軍に協力し、宮崎支隊の前方で作戦任務についていたのである。宮崎繁三郎中将とは、昭和19年4月にここサンジャックで会い、支隊撤退時に当地で別れたという。
ディマプールに進撃しなかった誤ち
当時の状況としては、勝負はまったく髪の毛一本の競り合いだった。
当時のディマプールは全地域にわたって狼狽と混沌の中にあった。
何千という苦力が路地に群がっていた。
血走った眼の通信隊の列がぶつかりながら動いていた。
日本軍がディマプールを手中にすれば、そこには食糧、弾薬、ガソリン、輸送車が無尽蔵にあったのだから牟田口は確かに勝っていた。『四人のサムライ』 英國ヒンド駐留軍第2師団参謀アーサー・スウィンソン著
このとき、もし日本軍がコヒマからディマプールに果敢に急進していたら、作戦全体において英國に勝利はなかった。
第33軍団司令官(ディマプール担当)ストップフォード中将
英印軍に非常に幸運だったのは、日本軍が驚くほど弾力性を欠いていたことだ。
すぐに第二目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、そのころ、まだ兵力の集中できていなかった連合軍はこれを防ぐ方法は無かった。マウントバッテン大将の報告書(連合軍・東南アジア戦域軍・総司令官)
牟田口の方が、実際には正しかったのである。
何といっても正しかったのは間違いないのである。
これがナポレオンの言った「機宜」というものであろうか。
佐藤師団長が一ヶ月の間に、ディマプールを占領しさえしていたら、英軍は懸崖に立たされていたであろう。アーサー・スウィンソン大尉『コヒマ』
英軍は完全に奇襲された。準備半途を衝かれ、奇襲は決定的なものであった。
首府ディマプールには予備団も無く、日本軍があのまま一押しすれば攻略は易々たるものであったのだ。
一方に、インパールの驚きは想像以上であって、守将ジファード大将の如きは、一旦遠くカルカッタ方面まで退却して後図を策するの是非を、マウントバッテン総師に伺いを立てるほどの驚きであったのだ。スチルウェル中佐(米支軍・フーコン方面軍作戦主任・北部ビルマ担当)
もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。
なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。アーサー・パーカー中佐の書簡(第四軍団参謀・インパール担当)
日本の軍司令官のなすべき全ては、コヒマを妨害するため一支隊を残し、師団の主力を持って猛烈にディマプールを衝く事であった。
幸いにも彼(佐藤師団長)はほとんどそれをとろうとしなかった。佐藤中将は、私の遭った日本の将軍中で最も消極的であった。スリム中将(第14軍司令官)『敗北から勝利へ』
インパール平野の危機が高まる中、スリムは日本軍第31 師団の佐藤師団長がディマプール占領よりもインパール攻撃を主張したため図らずも窮地を脱した。
佐藤幸徳の第31師団、烈師団はコヒマを4月4日に攻撃開始し、4月6日に占領した。
直ちにディマプールに進軍せよ、との牟田口廉也司令官の司令に逆らい、ディマプールに2ヶ月も滞留していた。
ここがシンガポールを攻略した山下奏文第25軍司令官の配下師団の機を逸しない峻烈な進軍との違い。総敗北の原因となる。
コヒマからディマプール駅まで70km。ディマプール平野の田畑と市場のある Chumukedima までなら60km。しかもほとんどずっと下り道、標高1500mから150mまでの下山道だから楽なはず。
15師団と33師団の動きはいかなるものであったのか?
しかし、私が佐藤中将にディマプール奪取を命じた時機は、河辺軍司令官がアッサム進攻を命ずべき絶好の機会と信じたからである。しかるに意外にも、私の命令は、河辺軍司令官によって阻止されたのである。無念というだけでは言葉がたりない。
第三十三師団田中信男中将が烈第三十一師団を統率していたならば、ディマプールに対して突進せよとの私の命令を待つまでもなく、戦機を看破し、独断ディマプールに突進したでありましょう。佐藤中将の統率は、貴殿の判断の通り、私を失望させたものであります。
牟田口廉也の書簡 1965年
将は西日本勢で固めるべきであった。志願制にすべきであった。
河辺 正三 ビルマ方面軍司令官 富山県 消極 ディマプール進撃阻止
牟田口廉也 第15軍司令官 佐賀県出身 積極
久野村桃代 第15軍参謀長 高知県
佐藤幸徳 第31師団(烈) 師団長 山形県 消極 7月5日解任(作戦中止後)
宮崎繁三郎 歩兵第58連隊長 岐阜県 31師団長を務めるべき人物
山内正文 第15師団(祭) 師団長 滋賀県 6月10日解任
柴田夘一 第15師団(祭) 師団長 福岡県 6月10日着任
柳田元三 第33師団(弓) 師団長 長野県(5月10日解任)柳田中将は十日間も前進を躊躇 (統制前進)
田中信男 第33師団 師団長 (5月10日着任) 広島県
第33師団長田中信男少将が部下に対して決死的行動を要求した自署の命令文はここに再記するに値するもので、日本軍の指揮官が部下将兵を扱った態度と方法をよく現している……中略……
かくのごとく望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を遂行した日本人の最高の勇気と大胆不敵さは、疑う余地がなく、日本軍に比肩すべき陸軍は他のいかなる國にもないであろう 英第14軍の司令官ウィリアム・スリム
山下奉文 第25軍司令官(シンガポール、フィリピン攻略) 高知県
市丸 利之助 海軍少将 (硫黄島の戦) 佐賀県
柳田は漸く腰をあげたといっても、その進撃は、牟田口が要求した「急進」ではなくして「漸進」であった。 軍の用語に「統制前進」というその進撃法であって、一部落を占領すればそこで休止し、偵察隊を派して前路を確かめてから次の部落に進むといった逐次前進法である。
高木俊朗『インパール』
牟田口廉也第15軍司令官 がこのウ号作戦を発動するに当たり、自らやりたい師団長を全日本軍の将の中から志願させるべきであった。それだけの余裕、選べるだけの人数がなかったかもしれないが。
雪國山形県出身の佐藤幸徳のような、もともとやりたくない師団長を採用しても、失敗に帰する確率は高くなる。
消極的だった河辺正三も、柳田元三も雪國出身であった。
ウ号作戦のごとく、全く独創的戦法をとる作戦においては、確固たる戦歴を有する指揮官を銓衡すべきである。実線の経験にうすく、いたずらに学歴とか平時的成績を基礎においた人事は絶対禁物である。第三十三師団長柳田中将に代うるに、はじめから馬占山討伐に勇名をとどろかした田中信男中将を充当しておったならば、作戦の様相は随分変わったものになっていたであろう。さらにまた、佐藤師団長でなくて、かりに宮崎少将が師団長であったならば、師団長の軍紀紊乱のようなこともなくて、戦果をあげ得たであろう。思えば残念なことばかりである。
インパール作戦をもって、戦争全般の形勢を好転させる絶好の戦機と認むるからには、高級指揮官たるものは、よろしく奮励一番、敵軍に一大痛撃を加えるの覚悟がなくてはならない。考えれば考えるほど、なんたる不運の作戦であったかと、長嘆息せざるを得ない次第である。牟田口廉也の書簡 1965年
餓死、白骨街道とは?
★ インパール作戦では補給計画が杜撰で、多数の餓死者がでた。
という話はまったくの大嘘(当時の日本軍では最も堅実な作戦計画とさえ言える)まずインパール作戦で餓死者が多数出たなんて話は、全くの大嘘で根拠なし。そんな証言も記録も一切無い。
補給計画に関して問題となったのは、3個師団のうちの31師団に関してだけ
他の方面は道路も整備された進行経路であり補給はトラックを使ってそれなりに実施されている。この31師団は北からインパールの背後へ回り込み敵の補給路を遮断する迂回部隊で
この部隊だけは、インパールを確保するまでは基本的に補給は無い。(佐藤師団長もそんなことは百も承知だったはず)
携行物資と敵から確保した物資、独自の駄馬部隊による補給で戦うという前提で強行されたが、これは別に無謀ではない。
戦略上妥当な計画であり、現実に予定した作戦期間中(4月いっぱい+α 最大2ヶ月程度)は全く物資に関しては問題は出ていない。
(作戦期間が当初の予定を大幅に延長された経緯は南方軍の判断で牟田口の判断ではない)
31師団(佐藤師団)は5月末に勝手に抗命撤退し撤退経路の各集積所から勝手に食料を略奪しながら撤退したため 31師団は飢えに苦しんだ事実は無い。しかし問題となったのは、作戦中止が決定したあと佐藤師団が撤退した後を進んだ15師団の松村連隊である。
抗命部隊の佐藤師団が、撤退経路のすべての食料を食べつくしたため松村連隊は食料が全く得られず、2ヶ月に及ぶ飢餓に苦しむ悲惨な撤退となってしまった。インパール作戦で飢餓に苦しむ白骨街道の話は、この話が事実のすべてであり他では飢餓に苦しむ状況は一切起きていない。松村連隊だけで起きた話。
しかも松村連隊の生存者は口をそろえて悪いのは抗命撤退した佐藤師団だと、明確に主張している
(公式連隊史「二つの河の戦い」)
しかしインパール作戦で一般に流布されている話は、こうした事実を全く伝えず、隠蔽、歪曲、感情論によって 事実と全く違うデタラメが創作され宣伝されてきた。
この話はもっともらしくはないか。
佐藤幸徳師団長の抗命撤退は兵士の命を救ったのか?
佐藤幸徳31烈師団長が牟田口廉也司令官のディマプールへ進撃せよ、との命令に逆らわずに遅滞なく進撃していた場合と、抗命撤退した場合の兵命損害数を比較する。
佐藤幸徳31烈師団長は6月3日に抗命撤退を開始した。
う号作戦の中止命令は7月1日であった。
NHKスペシャル 戦慄の記録 インパール 2017年8月15日
によれば、
7月1日作戦中止後の撤退中に死亡した人は6割という。
佐藤幸徳師団撤退開始の6月3日からなら7割以上であろう。
佐藤幸徳31烈師団長のディマプール進撃抗命と抗命撤退は、犠牲者を減らしたというよりもむしろ増やしたというべきであろう。
佐藤幸徳自身と、その周りの兵団の命は救われたかもしれないが、それによって負担が増した残留兵団、隣の15師団、33師団の犠牲者を増やした。
40Kgも背負っていたのか?
だから食糧問題というのは、あの山岳戦を突破していくんだから、いくら荷物を背のうに付けてあれしても、20キロから25キロぐらいのものを背負っていくんだから、それ以上は、人間とすれば重いから、無理だから、駄牛隊とかいろいろの輸送系統を仕組んで作戦に向かったわけだと思いますよ。
だいたい、重さを計る秤のようなもので計ったのか。計ってなくて推測で言っているのだろう。
吾が旅する時の背嚢の重さは10kg程度。15kgを超えることはない。
40kgもの荷物を担いでいるかどうかは外見である程度わかるだろうが、そのような日本兵の写真を提示すべきである。
NHK 戦慄の記録・インパール の嘘と偏向
最長470kmの行軍
どの師団のどの連隊が、どこからどこまでを計ると470Kmにもなるのか、不明。
最長距離を語るのであれば、最短距離にも言及すべきである。
ジープが走れる道路もあった。
チンドウィン河の川幅最大600m
乾季のチンドウィン川のどこに600m以上の川幅があって、どの師団が実際に渡河したのか、が明らかでない。
川幅400m以下のところがあるのに、600m以上のところを渡るはずはない。
最大川幅を語るのであれば、最小川幅にも言及すべきである。
荷物の運搬と食用のために集めた牛は、その半数が流された
空襲を避けるため夜間に渡河したが、荷物の運搬と食用のために集めた牛は、その半数が流されたという。
チンドウイン河の渡河中に、牛の半数が溺れ死んだ、とさもまことしやかに喧伝されているが、雨季ならまだしも、未だ乾季の3月には雨などずっと降ってないから、流れも緩やかであったことが想像できる。
2017年4月10日のチンドウィン川の航空写真
丁度、ウ号作戦で31師団が渡河した頃の1ヶ月後の様子である。波風なく穏やかな湖のような水面ではないか。この渡し場の川幅は 360m。これより狭いところを渡った部隊もあっただろう。
集めたのはビルマの牛なのか、水牛なのか、おそらく牛なのだろうが、水牛ならば溺れないだろうし、牛でも水量の少ない乾季の川で溺れるとは考えにくい。
住民も常時渡っているような、まともな渡し場があったのだろう。
Q:牛が渡るの後ろから見ていらっしゃって、どういう状況なんですか? やっぱり流されて行くもんなんですか?
まあ、やるのはみんな、同じだろうと思うんだけど、まず兵隊が船に乗って、それで、両脇に並ぶわけですね。それでみんな、牛の手綱、みんな持って、それで後ろから、ケツはたいて、河の中に入れるわけですよね。そうすると牛は、前行くよりしょうがないから、どんどん、どんどん引っ張られる。そのうちにむぐっちゃうのが、いるわけですよ。そうすると、押さえてる兵隊も一緒にこう、流されるような格好になるからね、放すわけですよ。そしたら、牛は流されていくわけ。だから、荷物積んだそのまんまで、流れていっちゃうわけ。あとは、どうしてみようもないわけですよ。
船なんたってよ、何匹も船に乗せられないわけでしょ。そうかって、いかだ作るっていっても、材料が無いわけよ。生木は生えてるけど、ジャングルで生木はあるけど、それ切って、いかだ作ってなんて、余裕は無いわけですよ。だからそこらあたりはね、上層部は何を考えてたんだかね。これだけの部隊でもって、駄牛隊を使ってやるってことになれば、そうとう大げさな、準備をしなきゃ、駄目なわけなんですけどね、そういうあれが、ぜんぜん無いんだよね。
Q:牛の数っていうのは河を渡るとだいぶ減ってたんですか?もう、半分以下になってたからね、渡ったら。
だからあと、どうすんだかって我々も、駄牛中隊の後ついていかなきゃ、だめですからね、あとのことなんて、頭にねえわけですよ。Q:アラカン山脈っていうのは険しい山なんですか?
まず、富士山クラスですね。一日に、山一つ。もう、歩きっぱなしですよ。だからそのころはね、もう、敵を追っかけていますからね、歩きながら飯、食うんですよ。
それでサンジャックでもって、コテンパンにやられちゃったわけですよ。ほとんど、玉砕みたいなもんだったですよ。
31師団、歩兵第58連隊 牧岡善太
こういう証言もあるが、富士山クラスとは誇張である。
確かに31師団の右突進体の進行ルートは、標高3800mのサラマティ・ピークの南方を通過するが、実際に歩いた経路は最高2000m前後だろう。
他の15師団、33師団の進行経路はずっと低く楽なルートであった。
サンジャックでコテンパンにやられた、玉砕、というのもネガティブ誇張。実際には日本軍が勝利して敵軍を撤退に追い込んでいる。
ネガティブ側が誇張されすぎていて、牧岡善太は全体的に信憑性に劣る。
本作戦の最大の鍵である補給の欠陥を補う手段として、生牛、生山羊を多数連行することになった。これは軍司令官の牟田口中将の発案として、牛一頭約十五円、山羊一頭約五円にて買い集められ、歩兵団司令部に牛百二十五頭、歩兵各大隊に約一千頭程配分された。
ビルマの牛は物資を駄載することを本質的に嫌うので、これに慣れさせるのが大変であった。又、チンドウィン河のような大河を渡河させるため、駄牛部隊はよく訓練していたため殆ど支障も損害も無く順調に出来たが、其の後の一日行程の過大と、難路、特に駄牛の飼料不足のため大部分が途中で斃死し、目的地のコヒマに到着したのは痩躯の五頭(歩兵団司令部用の牛)に過ぎなかった。駄牛携行の着想は必ずしも悪くはなかったが、特に飼料、行程等の研究が不十分であったため、本案は失敗に帰した。
これも31師団
チンドイン河渡河
3月14日。嵐の前の静けさなのか、今夜はジャングルも静まり返っている。
しかし相変わらず敵機の飛来が間断なく続いている。
3月15日。
朝から急に忙しくなって来た。まだ私物の整理をやっている兵隊もいる、指揮班へ連絡に行く者、馬の餌をやる兵隊、皆それぞれの分担に忙しい。
いよいよ「チンドイン河」の渡河命令が出たのだ。
速射砲中隊も、日暮れと共に渡河点のホマリンへ集結した。
河岸に近付くにしたがって葦が密生している。
「タコの木」の地上5メートル程の所まで泥が付着していて、雨季になるとここまで水位が上がるらしい。
日没になると幾日も続いた敵機の飛来が急に途絶えた。「不思議だ」助かった、「これを本当に(神風)と言うのだろうか」、と思った。
河岸まで行くと、小銃隊が渡河のまっ最中である。
我が速射砲では砲を優先に渡し、次に馬と兵隊だ。
筏に乗せた馬は、河の中程に来ると驚いて暴れ出し、馭者が必死になだめるが、手綱を持ったまま兵馬諸共河に落ちてしまう。船上では一斉に「綱を離せ、綱を離せ・・・・」と、絶叫しながら兵隊を助ける。
馬はそのまま濁流に流されて行く。弾は来ないがまさしく渡河戦さながらである。
「天の助けか幸か」、敵機の飛来もなく、対岸には敵もいなかった。翔んだ青春 関口 榮
われわれとすれば難儀ということではなくして、これはあれかなぁ、牛は泳げたかなという心配もあったんです。だけどある人は、「牛だって大丈夫だよ、泳ぐよ」と言う。結局、夜だからね。渡河戦だから、敵が向こうにどれだけいるかわかりません。こっちからは約800メーター、長いところは1,000メーターぐらいの川幅の、流れの強いあれですからね。歩兵隊も必死になって、どうするんだといったら、牛のくらや何から全部外して、別になっているから。牛そのもののあれを2頭ぐらいたがえて、そうすると3人ぐらいで、1頭2頭、そういうのをたがえて。兵隊が乗って、10人ばかり1個分隊のって。それを引っ張って行くんだから。やっぱし走り始めたら耳だけ、鼻と耳だけ、こうやってね。水面から顔を出すまねをしつつ、「おお、偉いもんだな」ってね。だけど、中には3分の1ぐらい流されたって。もうね、だめになれば置いてくるよりしようがないね。だけど、自分の牛は、みんなあれだったね。だから、偉いもんだなと思ってね。
えらい険しいですよ。アッサム州という山岳地があるんだがね。標高、高いところで2,000何百メートルという。それがズーッとつながっているところを行ったわけだからね。インパールを、われわれにすれば左のほうに見て、われわれは結局、西南に向かって行ったわけだけど、険しい山ですよ。
要は、牛の渡し方の巧拙によって結果が異なるということであろう。
川幅が800メートルもあるようなところを渡るわけがないだろう。
航空写真で川幅が800mもあるようなところを探してみるがよい。 誇張な表現に注意。
そのほかにあったのはね、野生の牛ね。牛を捕まえて。そのほら、牛を連れていったから、その牛がね、みんなそれ、野生に帰っちゃってんですよ。それを捕まえてきて、けっこう、それを食ったなあ。
連れてきて野生に還った牛が食糧になっているではないか。
最初の戦いで1000人の死傷者が出たというシンゲルの戦いは大敗北?
作戦開始(3月8日)から2週間(3月22日?)。インパールまで直線距離110キロの一帯で、日本軍とイギリス軍の最初の大規模な戦闘が起こる。南からインパールを目指した第33師団は、イギリス軍の戦車砲や機関銃をあび、1,000人以上の死傷者を出す大敗北(?)を喫した。
第33師団の柳田元三師団長は、「インパールを予定通り3週間で攻略するのは不可能だ」として、牟田口司令官に作戦の変更を強く進言。(3月27日)
ウ号作戦での最初の戦いは第33師団によるトンザンの近くのシンゲルの戦いで、日本側に1000人の死傷者が出たといっている。これが柳田元三師団長が牟田口廉也司令官に対して作戦中止の進言を行う理由にされている。
1,000人以上の死傷者 といわれると、1000人以上の死亡者がでたかのように聞こえるが、実際の死者と、負傷者の内訳は明らかにされていない。汚い誇張の仕方である。
大敗北と言っているが、本当に敗北だったのだろうか?
以下の通り、「ヒンド第十七師団はわが急襲包囲におどろき、死にもの狂いの脱出を試み、脱兎のごとくインパール方面に走った」のであり、「第 33 師団は敵第17ヒンド師団の撤退の遅れをついて」いるのだから、敵は逃げているのであり、敗北と言えるものではない。
第31師団のサンジャックの戦い(3月22日~27日)も同時期に発生して勝利をおさめているのに言及されていないのも偏向といえる。
第 33 師団は敵第17ヒンド師団の撤退の遅れをついて、3 月14 日その退路を遮断した。しかし、実際シンゲル(Singgel)付近で退路遮断に任じた歩兵第215 連隊のⅠ大隊とⅢ大隊は包囲した第 17 ヒンド師団とインパールからの救援部隊とに挟撃され、戦力をすりつぶされた。3 月25 日歩兵第215 連隊長笹原大佐は柳田師団長に「全員玉砕覚悟で任務に邁進す」と打電しながら、両大隊には独断退路開放の命令を下していた。
笹原大佐から柳田師団長への無線に齟齬があり、「全員玉砕」と報告された。それもあり、柳田師団長は笹原連隊に退路を開放させるが、退路を遮断していた部隊はすでに殆ど戦力を消耗しており、開放命令がなくとも、英印軍に突破されたであろう。
退路を遮断する兵力が不足していた。これは牟田口構想の部隊運用のゆえである。つまり、ビルマ方面軍の案なら、トンザン(Tongzang)・シンゲルからインパールの方向に33 師団全力を充当して、なお31 師団主力を予備隊として保持していたので、迂回、包囲部隊のやり繰りはつく。しかし牟田口は、33 師団を軍の助攻として、トンザン・シンゲル~インパール方向とタム(Tamu)・パレル(Palel)~インパール方向に師団戦力を二分させ、必然的に当該正面の歩兵部隊を少なくさせている。それが退路遮断部隊へ増援を送ることが出来ない主要な理由であり、敵の溢出、そして突破につながったのである。従って、柳田師団長が状況を悲観して退路開放命令を発したから、第17 ヒンド師団を取り逃がしたという非難はあたらない。
退路開放するだけで追撃はしなかったということか。
退路を遮断する兵力が不足していた、というよりも、退路を遮断するよりも、追撃してインパールに突進すべきであったということであろう。
論点のすり替えではないか。
そもそも敵軍の退路を塞ぐことは必要でないだけでなく、誤ちであったのである。戦略過誤である。
できるだけ速やかにインパールに突撃することが柳田33弓師団の使命であった。
その戦略過誤が1000人の損害を招いたのである。
この荒川憲一という戦史学者は、『戦時経済体制の構想と展開:アジア・太平洋戦争の経済思想史的分析』という論文を書いており、太平洋戦争史観、アメリカ史観の持ち主である可能性が高いので注意。
牟田口廉也文書のこの部分のことであろう。
柳田師団長は三月二十七日、私に対して、即時ウ号作戦を中止し、防衛態勢に転移するを可とする旨の重大意見を具申した。その理由として〈トンザンの激戦にかんがみ、軽装備をもって、短時日にインパールの敵主力を屠るのは至難であること〉と〈フーコン地区の戦況と、英軍空挺部隊が北ビルマに降下したことは、その方面の防衛を危うくするものであること〉をあげている。
時あたかも、烈第三十一師団、祭第十五師団はコヒマおよびインパール東北方に向い峻嶺を突進中であった。私はウ号作戦の中核師団の長である柳田中将が、突然かかる意見を具申してきた真意の奈辺にあるかを疑い、軍命令の服行をきびしく督励した。
ヒンド第十七師団はわが急襲包囲におどろき、死にもの狂いの脱出を試み、脱兎のごとくインパール方面に走った。この事実は、今日から顧みても〝勝てる戦〟の痛惜を深めるものがある。
すなわち、彼を急迫して一挙にインパールに突入することは可能であったのではなかろうか。柳田中将は十日間も前進を躊躇した後、軍命令に促されて、ようやく決意を新たにして、北進を開始した。このため、当初、軍が企図したインパール平地への突進急襲は水泡に帰し、ウ号作戦の重大な躓きとなった。私が失敗した点は、柳田中将を、もっと早く見切りをつけなくてはいけなかったのに、それが遅すぎたことにある。
牟田口廉也の書簡 1965年
つまり、ヒンド第17師団の退路を塞いで逆に挟撃されるような状態を維持して味方の損害を増やすに任せるのではなく、脱兎の如く逃走するヒンド兵に急迫してインパールに突入すべきであった、できたであろうということである。
太平洋からほど遠いミャンマー、ヒンド内陸部での戦争をあえて太平洋戦争と呼び続けるNHKのような太平洋戦争論者は、ダメダメ誹謗中傷ばかりの絶対宿命敗北論を積み重ねるのみで、どうすれば勝てたのか、というような建設的な発想が全く無い。
太平洋戦争と呼びたくても呼べないような地域での作戦は企画すべきではなかったし、実行すべきではなかった、といいたいだけである。
日本軍がヒンド解放のために戦ったということには一言も触れないだけでなく、そのようなことはありえなかったと隠匿したいのである。
牟田口司令官のもとには、ほかの師団からも作戦の変更を求める訴えが相次いでいたという。
3月27日というこの初期の段階では作戦の変更を求める訴えは他になかったはずである。
いつ、どこの師団の誰がそのような訴えを発していたのか明示すべきである。
牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉は、牟田口司令官と参謀との間で頻繁に語られていたある言葉を記録していた。
「牟田口軍司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり、『ハイ、5,000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5,000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした。」(齋藤博圀少尉の回想録)
これは従軍当時の日誌ではなく、昭和50年頃に書かれた回想録である。
齋藤博圀少尉が、現地で綴っていた日誌や回想録
とある。
番組の中で引用されているのは、横書きの回想録ばかりであった。日誌は一箇所のみ。
NHKにメールで問い合わせたところ、NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」取材班の回答は次の通り。
回想録は昭和50年頃までに執筆されたもの。
回想録は齋藤元少尉の妻が保有している。公開はされていない。閲覧は不可能。
齋藤元少尉は昨年亡くなった。
番組では、日誌、回想録、双方とも引用した。
日誌は縦書き、回想録は、横書き。
回想録は戦後30年の歳月を経て記されているということ。
その30年の間には、アメリカ占領軍GHQによる検閲、WGIP(War Guild Information Program、戦争罪悪感刷込計画)の洗脳過程を経ている。
終戦までに記されたものであれば信憑性も高いが、 WGIP 洗脳後の30年後に書かれたものであれば偏向情報に流されている可能性が高い。横書きである。
インパール作戦の勝敗の鍵を握ったある戦い
インパール作戦は敵國イギリス軍の戦力を軽視した戦いでもあった。終戦直後、イギリスなど連合軍がインパール作戦に関わった日本軍の司令官や幕僚17人から、その内実を密かに聞き取っていた資料が見つかった。この中でインパール作戦の勝敗の鍵を握ったある戦いについて細かく聞き取られていた。
これがブリ帝國軍に史上最も偉大な戦いと言わしめたコヒマの戦いである。
勝敗の鍵を握っていた戦いがあったということは、NHKが宣伝するように最初から無謀で負けることがわかりきっていた作戦、実行すべきではなかった作戦とはいえないということではないか。
コヒマに到着するまでに、補給された食糧はほとんど消費していた?
北から進攻した第31師団、1万7,000人が、イギリス軍側と激突した「コヒマの闘い」である。連合軍の調書によると、コヒマに攻め込んだ第31師団の佐藤幸徳師団長は、コヒマに至った時点(4月4日)で戦闘を継続するのが難しい状態だったと証言している。
「コヒマに到着するまでに、補給された食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった。」(佐藤幸徳師団長 調書より)
食糧がなかったのであれば、その後2ヶ月以上もコヒマで戦闘を続けることはできなかったはずである。その後どのように食糧を確保し、捕獲した食糧をどのように無駄にしたのかという証言を引用すべきである。
3週間で攻略するはずだったコヒマ。ここでの戦闘は2か月間続き、死者は3,000人を超えた。
佐藤幸徳31師団はコヒマを4月6日に占領した時に、敵の兵器、弾薬、食糧等を大量に見つけている。
第一大隊主力は、険悪極まる山岳地帯を踏破して、七日以来ジョセマ附近の要地を確保して善戦していた。この大隊が日本陸軍の中で印度の一番奥地まで進攻した部隊となった。
コヒマ附近の敵は、当初一個旅団程度のもので其の陣地もアラズラ高地線を第一線とし、コヒマ周辺に掩蓋を有し簡単な鉄条網を設備した野戦陣地の域を脱しない物であった。
アラズラ高地やコヒマ周辺の各所は、未だ運搬して来たばかりの真新しい有刺鉄線を始め各種の防備資材が山積放置してあった。又、コヒマ新市街の敵の幹部用と思われる官舎地域の、混乱し退却した跡から見て、敵がわが軍の奇襲的突進に対し如何に狼狽したかが窺われた。即ち我が戦略奇襲作戦は見事に成功した。
コヒマ附近に於ける、敵の兵器、弾薬、被服、糧秣、ガソリン等の軍需品は実に莫大なものがあったが、我が軍の適切な処置を欠き、其の大部分を敵の爆撃により烏有(全く無いこと)に帰してしまったのは、わが方の補給が殆ど望みの無い状況に鑑み、全く惜しい限りであった。
佐藤幸徳31師団長はこのような「適切な処置を欠」くような事態を招いた事実を証言すべきであった。
補給、補給と親離れできない子供のように終始他力本願だったことが、捕獲物資を無に帰せしめる失態を招いたのである。
さらに、コヒマに物資がなく、「コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった」のであれば、敵軍の物資集積地であったディマプールへ遅滞なく進撃せよ、との牟田口廉也司令官の命令に逆らう理由はなかったはずである。
Shortly before the siege of Kohima began, the Japanese had captured a huge warehouse in Naga Village with enough rice to feed the division “forthree years“, but it was immediately bombed and the stock of rice was destroyed.
5月中旬に3人の師団長を更迭した?
作戦開始から2か月が経過した1944年5月中旬。牟田口司令官は、苦戦の原因は師団長、現場の指揮官にあるとして、3人の師団長を次々と更迭。作戦中にすべての師団長を更迭するという異常な事態だった。
第33師団長の柳田元三中将は5月10日、
第15師団長の山内正文中将は6月10日、
第31師団長の佐藤幸徳中将はウ号作戦中止(7月1日)後の7月5日or 9日?
の解任である。
山内正文第15師団長は、結核で倒れていた。
翌六日の会談では、牟田口軍司令官は祭第十五師団長山内正文中将の更迭を要請した。 高木俊朗『インパール』
そのあと、軍参謀長と別れた薄井参謀は祭の師団司令部を訪れた。 祭の師団長山内正文中将は結核で倒れて、病床にいた。
高木俊朗『抗 命 インパールII』
8月6日にメイミョウの病院で死亡している。
インパール作戦間に、牟田口軍司令官は部下の三人の師団長を更迭した。 その事態も異常であったが、その処置が柳田中将をはじめ、ほかの佐藤幸徳・第三十一師団長、山内正文・第十五師団長も同様であったとしたら、牟田口軍司令官のやり方は、いよいよ異常といわなければならない。 高木俊朗『全 滅』1968
高木俊朗はGHQの太平洋戦争洗脳の典型的な犠牲者であった。
司令官が不適任と判断した師団長を解任するのは当然のことである。
柳田中将は十日間も前進を躊躇した後、軍命令に促されて、ようやく決意を新たにして、北進を開始した。このため、当初、軍が企図したインパール平地への突進急襲は水泡に帰し、ウ号作戦の重大な躓きとなった。私が失敗した点は、柳田中将を、もっと早く見切りをつけなくてはいけなかったのに、それが遅すぎたことにある。 牟田口廉也の書簡 1965年
最初から不適任であることを見抜き、不採用にするべきであったのだ。
太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦
太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。戦死者はおよそ3万人、傷病者は4万とも言われている。軍の上層部は戦後、この事実とどう向き合ったのか。
敵側のブリ帝國では戦史上、最も偉大な戦いと認識されているインパールの戦いを、最も無謀と宣伝してきたのはNHK自身であろう。
NスペPlus のカバー写真はチャンドラボーズと牟田口廉也
奇しくも、NスペPlus サイトのカバー画像は、この記事が採用したアイキャッチ画像・背景画像と同じ場面である。
吾がこのNスペPlus サイトを発見したのは、こちらが背景画像を設定完了して公開後、さらに調査加筆している最中であった。
それだけこの画像場面(牟田口廉也とチャンドラボーズの作戦会議)の意味するところが、このウ号作戦の本質を突いているということをNHKも認めているということであろう。
にもかかわらず、番組でチャンドラボーズの名前が一度でもでてきただろうか? 自由ヒンド國民軍(INA)との共同作戦について多くが語られたであろうか?
ヒンド独立関係ニュース映像
昭和17年1942年2月16日 朝日新聞
昭和17年1942年2月16日 朝日新聞
印度独立 國民救援大会<蹶起せよ印度>
独立宣言民衆大会<蹶起せよ印度>
印度の志士ボース氏来朝 1943年(昭和18年)6月23日
第八十二臨時議会
≪東條首相≫
「比島独立に対する帝國の態度は、累次の声明により既に明らかなるところでありまするが、帝國はこの際さらに一歩を進めて本年中に比島に独立の栄誉を与えんとするものなることをここに中外に闡明(せんめい)するものであります。
大東亜の諸國家、諸民族がたくましき発展を成しつつあるに比較いたしまして、印度がなお英國の過酷なる弾圧の下に独立完成のため大なる苦しみをなめつつありますることに対しましては、私は衷心より同情の意を表するとともに、憤りを感ずるものであります。
帝國は印度民衆の敵たる米英の勢力を印度より駆逐し、真に独立印度の完成のためあらゆる手段を尽くすべき牢固(ろうこ)たる決意を持っておるのであります。
印度独立連盟 比島支部<大東亜建設譜>
ビルマ独立を宣す 昭和18年8月1日
比島独立 昭和18年10月14日
ヒンド仮政府樹立 民衆大会<大東亜共栄譜> 10月21日
共栄の理想顕現 大東亜会議 11月5日
世界史創建の大憲章 大東亜共同宣言成立
陸海荒鷲 カルカッタ爆撃行 12月5日
戦機動く ビルマ戦線
1月7日、スバス・チャンドラ・ボース氏は、自由ヒンド仮政府を率いてビルマに進んだ。彼は断言した。今日の独立運動こそは、ヒンドの歴史における最後の独立運動であると。アジアの民は君たちの戦果に期待している。デリーへ、デリーへ。ヒンド國民軍は進撃を開始した。
自由ヒンド仮政府首班ボース氏ビルマに到着
1月7日、自由ヒンド仮政府首班、スバス・チャンドラ・ボース氏は、空路、ビルマに到着。日本とともにアジア解放の戦いに駒を進める。
ビルマ前線の陸軍部隊
アンダマン列島に航空基地建設
緬印戦線(ビルマ ヒンド)
ビルマ、ヒンドの國境近く、堂々進軍する、ヒンド國民軍。時、至る。昭和19年、3億5000万のヒンド民衆が、そして正義を愛するアジアの民が、この時あるを待っていた。力強い皇軍の支援を受けて、独立旗を押し立てて、道は続く。國境を越えて、はるかデリーへ。祖國ヒンドへ。道ばたの新しい墓標が大東亜戦争の聖なる意義と日本軍の限りなき支援を示している。さればこれに尽きざる感謝の誠を捧(ささ)げて、國民軍は進む。
英印第七師包囲殲滅戦
ビルマ戦線へ歩兵部隊を空輸
印度國民軍 陸續前線へ 3月22日
ヒンド國民軍、ついに宿望の祖國の土を踏む。その感激も生々しい3月22日、前線においてボース最高指揮官は、アラカン作戦初の殊勲者、ミスラー少佐に対して、國民軍最高の栄誉、サンダー・E・ジャンの勲章を授与。
ヒンド國民軍は進軍する。ボース首班の像、独立旗を押し立てて、新鋭部隊は続々前線への嶮路(けんろ)を進む。既に印度國内に奮戦する同志の勝報は相次いで伝えられた。戦場は近い。足並みも軽く、新鋭部隊は一路祖國へ、ヒンド國内へ。
自由を我らに ヒンド國民軍婦人部隊の猛訓練
自由か、死か。自由ヒンド婦人軍は、大東亜全女性の輿望(よぼう)と激励に応えつつ、堂々の歩武(ほぶ)を進める。
緬印(ビルマ・ヒンド)戦線
緬印(ビルマ・ヒンド)戦線
アラカンの南、カラダン川をさかのぼって、きょうも前線への補給に急ぐ、我が陸軍舟艇隊。
3月下旬、インパール前衛の拠点、英印軍第17師団司令部、ティディム、またトンザン、我が手に落つ。急ごしらえのトーチカ。塹壕(ざんごう)。焼け崩れた軍用トラック。遺棄された軍需物資の山。
ティディムTiddim、トンザン はまだビルマ領内だけど、当時はブリ帝國(イギリス)軍がいたのかな
緬印戦線で活躍するヒンド國民軍
征亜軍がカラダン河のかなたに潰走(かいそう)したあとには、おびただしいチャーチル給与が転がっていた。その敵の未練の品々を、我が軍はそっくりちょうだいした。しかしチャーチル給与にも増してパレトワの第一線に思いがけぬ、天國のようなひとときが許された。すなわち、水浴である。1人の兵隊が実感を込めて感懐を歌った。
緬印(ビルマ・ヒンド)戦線
英人将校の率いる、敵斥候部隊。戦意さらになく、我に投降す。直ちにこれを捕捉して、敵主力の所在を尋問する。
戦友ヒンド國民軍、敵陣は近い。路傍に遺棄されたる軍用トラック、数多(あまた)。物量を頼む敵軍敗走の姿である。
歓喜に湧く東印度(インドネシア独立容認)
9月7日、小磯首相は第85帝國議会において、東印度に対し、将来その独立を認める旨を声明。
300年にわたるイギリス、オランダの圧政に呻吟(しんぎん)したインドネシアは、今、新しき希望を抱いて進発する。全東印度は歓喜と興奮のるつぼと化し、独立認容記念日の9月7日より1週間、民族祭を挙行。
比島宣戦 9月23日、フィリピン共和國、米英に対し宣戦を布告す。
牟田口廉也の國会図書館独白録音 1965年
牟田口文書と呼ばれる 牟田口廉也の國会図書館独白録音 1965年 の全文がどこにも見つからないのはなぜだ?
政治談話録音
受入事項 所蔵資料形態 CD-R、談話速記録
数量 89枚(CD-R)・14冊(談話速記録)
旧蔵者 政治談話録音(せいじだんわろくおん)
主な内容 主に昭和前期から戦後にかけて日本の政治史で指導的な役割を果たした人物、歴史的に重要な事件にかかわった人物を対象に、これまで公表されていない事実などを聴取することを目的に、当館が実施したオーラルヒストリー。
作家で参議院議員をつとめた故山本有三氏らの提案を契機に始まったもので、1961年に政治史料調査事務局を設置し、「町野武馬政治談話録音」を実施して以後、1987年までの間に、計10人から聴取を行いました。●談話者、談話時期、談話者略歴、主な談話内容、収録時間の一覧は以下の通りです。
<牟田口廉也>
第1回 1963年4月 陸軍中将・歩兵第1連隊長・第15軍司令官 蘆溝橋事件 2.5時間
第2回 1965年2月 インパール作戦 2時間
聞き手は第1回:山本有三(作家、元参議院議員)、第2回:聞き手なし(牟田口による独白)
高木俊朗著『抗命』の中での、牟田口文書の引用。
しかるに天なるかな、命なるかな、パーカー中佐の疑問は、私の魂の叫びであるところのディマプール進撃の決心が、敵側から見ても絶好の機会であったことを教えてくれた。これこそ私に無限の喜びを与えてくれたものなのである。私にとっては中佐の通信は、真に〝神のお告げ〟と感ぜられてならない。
私ども戦争当事者として、とった作戦の方針なり指導なりが、時機に的中していたことが事実に徴して確証された場合、その喜びがいかなるものであるか、お察し願いたい。
……
英國第四軍がインパール一帯の地域から撤退した場合の日本軍の作戦目的について、という質問にお答えします。
日本軍の作戦は、ビルマの防衛強化という消極的、戦術的作戦でありましたが故に、英軍がインパールを撤退した場合には、インパール付近の堅固な地形に、ビルマ防衛線をしくことになったでしょう。
……
この当時においては、日本軍の状況は各方面とも不振を極め、ただ、わが第十五軍方面においてのみ、作戦指導のいかんによりては一道の光明を認め得ると判断しました。私は盧溝橋事件処理について至らざるところがあった故に、國家に迷惑を及ぼしたるものと、みずからを責めておりましたので、おのれの微力をもかえりみず、アッサム進撃を計画し、奉公の真を致すは、この作戦に勝利を獲得する一途あるのみと思いつめたのであります。
私は方面軍司令官に対しアッサム進攻作戦について意見を具申したのであります。しかしながら方面軍司令官には、アッサム進撃について同意していただくことができず、わずかにビルマ防衛強化という消極的作戦目的で、命令せられたのであります。
……
大東亜戦争全般の形勢を有利に展開することは、もとより希望するところであり、このためにヒンドに対し、政略的効果を期待する微妙な機運が、私の心中に伏在しておったことは否定できない心境でありました。
従って、機会の乗ずべきものがあった場合には、ディマプールに一挙に進出を企図したでありましょう。
……
戦後になって、ディマプール方面の英軍の配備が薄弱であり、あの時、私の決心通り攻撃しておれば、英軍の不意を衝くことができ、大きな戦果を収め得たであろうことを知り、残念に思われてなりません。
……
コヒマの占領が意外に早かったのは、私がウ号作戦をもって鵯越作戦となし、敵の不意に乗ずるを主眼としていたのが成功したためである。ウ号作戦開始前に、私は方面軍司令官河辺中将に対して、アッサム進攻について意見を具申した。河辺軍司令官は『好機到来せば、河辺軍司令官よりこれを命ずる』からと、私の意見をおさえられた。しかし、私が佐藤中将にディマプール奪取を命じた時機は、河辺軍司令官がアッサム進攻を命ずべき絶好の機会と信じたからである。しかるに意外にも、私の命令は、河辺軍司令官によって阻止されたのである。無念というだけでは言葉がたりない。(このあと、盧溝橋事件の時とその八年後のウ号作戦のときの上司であった河辺中将と牟田口中将の間の指揮・命令の類似性について記した後)
ウ号作戦においては、(河辺軍司令官は)ディマプール進撃を阻止しただけで、何ら以後の措置について指示することもなかったのである。ついに佐藤師団長をして補給困難に陥らしめて、独断退却の軍旗違反の大罪を犯さしむるに至った。河辺軍司令官としては、ウ号作戦を断念させるべきであったと思うのである。優柔不断ということが最も戒しむべきことである。河辺軍司令官は、それを犯しているのである。
……
最高統率者としては、過去において多少でも優柔不断な経歴の持ち主は絶対に避くべきである。上司の覚えめでたいような、うわべの成績は一文の価値もなく、万人が認めるような確固たる信念の持ち主を充当すべきである。東条さんから進攻作戦を説かれて、心にもない進攻作戦を主張するような河辺軍司令官であったが故に、日本が勝つか負けるかのせとぎわに、ディマプール進撃ができなかったのである。
かかるさいには、自分が大本営までも押しかけて行き、航空部隊の増援でも実現する司令官であってほしいのである。そのくらいの意気込みがほしかった。貴殿が質問せられる通り、第三十三師団田中信男中将が烈第三十一師団を統率していたならば、ディマプールに対して突進せよとの私の命令を待つまでもなく、戦機を看破し、独断ディマプールに突進したでありましょう。佐藤中将の統率は、貴殿の判断の通り、私を失望させたものであります。
戦機を看破し、独断」というところが肝要。
牟田口廉也は戦争の天才だったのかもしれない。
だから周りのレベルが低すぎて、理解できずについていけなかった。
こういう天才を活かせない日本と活かせるアメリカの違いが悲惨なだけ。
こういう天才がいたならば、やりたい放題やらせるのが一番である。足を引っ張らずに。
ビルマと同じように、ヒンドのブリ帝國軍を降伏に追い込めてたかもしれない。ヒンド民衆の反乱も起こるだろうし。
計画されていた武号作戦の1943年中に。
援蒋ルートも根絶完了。蒋介石も降伏。
佐藤師団長がコヒマを占領することに努力をしなかったのは、統率上の過誤であります。さらに後日、独断退却の挙に出たことは、旧日本軍の厳正なる軍紀を乱すもので、遺憾至極にたえません。
当時、佐藤中将の烈師団への補給が困難におちいることが予想されていたので、ディマプール攻略によって、佐藤師団が必要とする糧食を獲得できると考えたのであります。ウ号作戦のごとく補給が至難な作戦においては、ことに糧食、弾薬、兵器など、いわゆる〝敵の糧〟によることが絶対必要である。これがためには、随分放胆な作戦指導が必要である。放胆な作戦であればあるほど、危険がつきものである。
佐藤中将が故人となった今日、彼を責めるのは、情において忍びないところであります。佐藤中将と士官学校同期生の田中新一元中将は、このことについて、私に、
「お気持ちはよくわかりますが、真相を伝える戦史を誤ることは徳義に反するから、事実をまげることなく、真相をありのまま書かれた方がよろしいと思います」
と、注意されたので、かく決心をしました。
……
烈師団のなかでは、宮崎繁三郎少将の指揮する部隊の行動には私は満足しました。この部隊が、わずか五個中隊をもって十余日間も英軍増援部隊を阻止した戦闘ぶりは、まさに称讃に値するものであります。しかし、これは佐藤中将の直接指揮下ではありません。佐藤中将については、常に失望していたことを重ねて強調します。
……
柳田師団長は三月二十七日、私に対して、即時ウ号作戦を中止し、防衛態勢に転移するを可とする旨の重大意見を具申した。その理由として〈トンザンの激戦にかんがみ、軽装備をもって、短時日にインパールの敵主力を屠るのは至難であること〉と〈フーコン地区の戦況と、英軍空挺部隊が北ビルマに降下したことは、その方面の防衛を危うくするものであること〉をあげている。
時あたかも、烈第三十一師団、祭第十五師団はコヒマおよびインパール東北方に向い峻嶺を突進中であった。私はウ号作戦の中核師団の長である柳田中将が、突然かかる意見を具申してきた真意の奈辺にあるかを疑い、軍命令の服行をきびしく督励した。
ヒンド第十七師団はわが急襲包囲におどろき、死にもの狂いの脱出を試み、脱兎のごとくインパール方面に走った。この事実は、今日から顧みても〝勝てる戦〟の痛惜を深めるものがある。
すなわち、彼を急迫して一挙にインパールに突入することは可能であったのではなかろうか。柳田中将は十日間も前進を躊躇した後、軍命令に促されて、ようやく決意を新たにして、北進を開始した。このため、当初、軍が企図したインパール平地への突進急襲は水泡に帰し、ウ号作戦の重大な躓きとなった。私が失敗した点は、柳田中将を、もっと早く見切りをつけなくてはいけなかったのに、それが遅すぎたことにある。
ウ号作戦のごとく、全く独創的戦法をとる作戦においては、確固たる戦歴を有する指揮官を銓衡すべきである。実線の経験にうすく、いたずらに学歴とか平時的成績を基礎においた人事は絶対禁物である。第三十三師団長柳田中将に代うるに、はじめから馬占山討伐に勇名をとどろかした田中信男中将を充当しておったならば、作戦の様相は随分変わったものになっていたであろう。さらにまた、佐藤師団長でなくて、かりに宮崎少将が師団長であったならば、師団長の軍紀紊乱のようなこともなくて、戦果をあげ得たであろう。思えば残念なことばかりである。
インパール作戦をもって、戦争全般の形勢を好転させる絶好の戦機と認むるからには、高級指揮官たるものは、よろしく奮励一番、敵軍に一大痛撃を加えるの覚悟がなくてはならない。考えれば考えるほど、なんたる不運の作戦であったかと、長嘆息せざるを得ない次第である。
牟田口廉也は1966年(昭和41年)8月2日に亡くなっている。
これが國会図書館に残された遺書といえる。
ちなみに上のリンク先のサイトも、その中で引用されている書物「抗命」の著者 高木俊朗も大東亜戦争を「太平洋戦争」と記述していることから、敵國史観、アメリカ史観の論理、マインドコントロールの中で叙述されている。
ヒンド独立の父は牟田口廉也、東条英機、チャンドラ・ボーズ
ヒンド独立の父は牟田口廉也、東条英機、チャンドラ・ボーズ
といえるだろう。
ガンジーなどは、日本、ドイツがブリ帝國(ブリティッシュ帝國、イギリス帝國)軍と戦っているのに、ブリ帝國に加勢するようにとヒンド民衆を扇動している。
ガンジーはブリ帝國の飼い犬であった。
だからブリ帝國はガンジーを殺さなかった。