泰緬鉄道メクロン河永久橋とJEATH戦争博物館

 

カンチャナブリの町の北側に鉄道の橋がある。

日本軍が建設した時には川の名はメクロン川であり、橋はメクロン河永久橋と呼ばれていた。

戦後1957年にフランス人の原作の The Bridge on The River Kwai というフィクション映画が流行り、クエイ川と改称されてしまった。

 

日本軍が建てた慰霊塔

町の中心部から川沿いの道を歩いていくと、橋の手前にまずあるのが、慰霊碑。これは大東亜戦争の戦闘状態終結前の1944年2月に日本軍鉄道隊によって建てられたもの。南方各國労務者及び俘虜の霊を慰む。

 

 

この慰霊碑のすぐ隣が戦争系博物館。

 

メクロン川永久橋

先に橋を見に行く。

先日列車で渡ったのだが、今度は歩いてみる。

 

戦闘終結後、分断撤去した泰緬鉄道をイギリスがタイに5千万バーツで売りつけたと記されている。

 

World War II & JEATH 戦争Museum

この橋を歩いた後は World War II and JEATH War Museum という戦争関係の文物と、宝石などその他雑多な物も展示された博物館に入る。

これはタイ人の個人経営の博物館である。

入館料は40バーツ。中にあるトイレは5バーツの別料金。

 

中の展示物はこんな感じ。

 

大東亜戦争と、欧州大戦、太平洋戦争、第二次世界大戦

説明文を見ると、第二次世界大戦、WWⅡの語が多い。

タイ人のオーナーではあるが、

ビルマの内陸部でやってる大東亜戦争を第二次世界大戦、太平洋戦争などというのがおかしい。

日本対イギリス(オーストラリアもイギリス帝國女王が元首、アメリカも元はイギリス人の植民地)、白人に対する有色人種の独立を求める戦闘であった。

 

日本海軍、市丸海軍少将、書ヲ「フランクリン ルーズベルト」君ニ致ス。で始まる手紙がある。

 

この中で市丸海軍少将本人が「欧州」大戦といっているのにやたらと「世界」大戦と現代誤訳したがるサイトが多いのには驚く。欧州を世界と混同して原作者の真意を曲げてはならない。

 

日本ハ國歩難ヲ極メ、自ラ慾セザルニ拘ラズ、日清、日露、第一次欧州大戦、満州事変、支那事変ヲ経テ、不幸貴國ト干戈ヲ交フルニ至レリ。

 

今「ヒットラー」総統ノ行動ノ是非ヲ云為スルヲ慎ムモ、彼ノ第二次欧州大戦開戦ノ原因ガ第一次大戦終結ニ際シ、ソノ開戦ノ責任ノ一切ヲ敗戦國独逸ニ帰シ、ソノ正当ナル存在ヲ極度ニ圧迫セントシタル卿等先輩ノ処置ニ対スル反撥ニ外ナラザリシヲ観過セザルヲ要ス。

 

これを見ると、第一次欧州大戦であって、世界大戦と呼ぶ必要はないのではないかということがわかる。

 

展示資料の、塚本和也メクロンの永久橋をPDFにし、見やすくした

 

昭和21年が開けた1月16日、突如として英軍司令部からニーケ~ソンクライ間4kmのレールの撤去を地区担当の鉄9に命ずるとの伝達が届いた。
タイビルマの鉄道は再び分離することになったのである。
以後、ビルマ側の泰緬鉄道は順次取り外され、レールはモールメンに集結されて、路盤は元のジャングルに返された。  P18

 

 

日本の歴史を語る時に、大東亜戦争ではなく太平洋戦争を使っているのは敵國史観に染まっている証。

NHKの戦争物の番組ではすべて太平洋戦争だろうから、敵國の歴史を語っているということになる。

日本人でありながら、学校ではアメリカの歴史しか教えられないのは悲惨である。

 

 

泰緬連接鉄道の歴史

1942年6月28日 ビルマ側から建設開始

1943年10月に完成

1943年11月5日 大東亜会議 大東亜共同宣言

大東亜会議 「チャンドラ・ボース(自由印度仮政府首班)の演説」

 

SPEECH OF SUBHAS CHANDRA BOSE, HEAD OF THE PROVISIONAL GOVERNMENT OF AZAD HIND

 

1944年2月 日本軍鉄道隊がアジア人労働者と捕虜労働者の死亡者を慰霊する慰霊塔を建てた。

1944年3月8日 インパール作戦、自由ヒンド國民軍と日本軍が協同進軍開始 

 

1946年1月16日 イギリス軍司令部からニーケ~ソンクライ間4kmのレールの撤去を地区担当の鉄9に命ずるとの伝達が届いた。以後、ビルマ側の泰緬鉄道は順次取り外され、レールはモールメンに集結されて、路盤は元のジャングルに返された。

1945年8月15日以降、撤去分断された泰緬鉄道を、イギリスはタイに5千万バーツで売りつけた。

 

チャンドラ・ボースの自由印度仮政府は AZAD HIND

自由ヒンド仮政府は、AZAD HIND の英訳である。

やはりヒンドはヒンドであり、ヒンズー教のHIを省くべきではない。

ヒンド人、ヒンド國である。自由ヒンド。

 

このサイトでこれまでにヒンドを使った記事はこれだけある。

 

 

 

 

  • 2680年5月21日

    家の佛壇

    両親の家の佛壇。 ミャンマーの佛教祭壇はあまりにもけばけばしかった。 クリスマスツリーのようなイルミネーションでピカピカと飾られていた。
  • モンパウン Mong Pawn မိုင်းပွန် を過ぎてナムサン へ山越え。霧雲の上に出る。 雲上のパゴダが見える。11月21日は祝日。National Day というが、由縁は不明。 Loilemから走っていると、Namsang ナムサンの手前で検問があった。 警察の制服を着ていた者8人ぐらい。 車内の荷物検査が荒っぽい。 見せたのはパスポートのみ。 10分ぐらい停車。 どこに行くのか、タチレクへ。 問答はこれぐらい。 タイナンバーの車とか、全く問題にならない。 有効的な雰囲気で通過。 遮断棒とかない場所で、臨時の検問場所のようだった。 祝日だからか モンナイに近づくと、3kmぐらい手前右手に古めかしい佛塔群が見えたので歩く...
  • カクパゴダ(カックー遺跡)からインレー湖へ山越えルートをとる。 10km短くなるが時間はずっとかかった。 対向車は全くなし。 気楽に走れる。 峠を超えて下り始めて休憩で少し歩くと花があった。 さらに細い山道をくだっていると、車の底のカバーが外れて擦り始めた。 舗装道路に出るまで9kmぐらいそのままうるさく走る。 Nampan に車修理屋を見つけてすぐに直った。 1000k を渡す。 市場とボート乗り場のある方に進む。 Nampan 市場は5日ごとに開かれているらしい。次は2日後の金曜日。 英語のボートガイドがいる。この日は既に風邪気味だった。 印度にもあった、ストロングのダゴンビールを飲んで休息。風邪が吹き飛んでくれるかと思ったが、喉の異常は悪化していった。 ...
  • インレー湖に近づいた所で風邪の気配。 11月14日から8日ぶりのPC作業に戻った。 写真のPCコピー等。 今回の風邪は軽症で済ますことができたがフルコースをたどった。 喉の痛み→鼻水→咳 風邪で一番つらいのは、咳がとまらなくなること。 それを避けるために、休息時間を多く取った。 咳はまだ完全に直っていないが、時折痰咳が出る程度。 咳の期間は最短で、咳き込むような状態にはほとんどならなかった。風邪をひいた原因は、夜間の冷えだろう。 2枚重ねにできる寝袋があるのに、薄着のまま寝て寒さを感じていた。 注意不足。 旅中には風邪をひかないように注意しすぎることはない。 大事をとって、活動がかなり鈍った。 こじらせずにすんだのは幸い。ミャンマーのシャン州は全体的に標高が高...
  • 2679年11月13日

    カクパゴダは墓地?

    インレー湖に突入する前に、タウンジの南方50kmの所にある、カク・パゴダ Kakku Pagodas に行く。 ここも小さな尖塔が林立する。 2000本以上あるらしいが、こういう形態の佛教建造物は多数という意味で、千本佛塔、千本パゴダと呼ぶべし。 Mahar Myat Mu Ni のように黄金ペンキで彩られていない。長銃を抱えた軍服人が何人もいて監視している。 夕方と翌早朝に歩いたのだが、風が吹けば鳴るという風鈴の音は一度も聞こえなかった。 周囲は巨木に囲まれていて、風は吹きにくいのではないか。 昼間なら風が強くなるかもしれない。周囲は巨木がよい木陰をつくっているが。 このカックーパゴダをカックー遺跡と日...
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  • 2679年11月13日

    タウンジの人気食屋は如何

    タウンジ北部の市場を出て車を走らせていると、混雑したレストランを発見して寄ってみた。 肉まん、麺類、お好み焼きなどメニューがいろいろある。 男の店員は注文を大声で叫ぶ。 威勢がよい店。お好み焼きに唐辛子を掬って振りかけたら、小さな虫がうごめいた。 肉まんを追加注文したら、中身が冷たかった。 それで、良い店とは思えない。 混みすぎて乱雑な感じ。 隣には酒バーがあった。たうんじでカウイー、どぶろくがないか2回尋ねたのだが、誰も知らなかった。タウンジを去る前に昨日のショッピングセンターに寄ってサンダルを買っておいた。 タウンジにはまた平日に来たい。 50km南のMwe Taw Kakku Pagodas Complex に向かう。
  • 2679年11月13日

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    タウンジ Taunggyi တောင်ကြီးမြို့ の北部にも大きな市場があった。 今日、火曜日も連休の最終日になっているようだ。 そのためなのか、市場の内部は閉まっている店も多く見えた。

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