タイのリタイヤメントビザを更新するための必要書類は、新規でビザ申請した時と同じもの。賃貸契約書のコピー オーナーのタビアンバーンのコピー オーナーのIDカードのコピーこれらにはオーナーの自筆署名があるが、コピーで良い。 ずっと同じところに住んでいるならば、毎年の更新時にオーナーをわずらわせることなく、コピーで対応できる。最初にチェンライのイミグレーションオフィスに行ったら、タビアンバーンの住所と賃貸契約書の住所が違うから、賃貸契約書の住所のタビアンバーンも必要だと追い返された。 それでメーサイのイミグレに駆けつけたわけだ。 メーサイなら2ヶ月前にそこで同じ書類で審査を通過しているわけだから、その同じだけのタビアンバーンのコピーでいけないわけがな...
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- 2678年10月18日タイの運転免許は新規取得すると、2年間有効。 更新は期限の1ヶ月前から期限後1年間の間に手続きできる。 期限後1年を過ぎると新規取得となり、あらためて試験を受けなければならなくなる。更新すると、6年目の誕生日まで有効の免許証になる。 吾の場合は、8月生まれなので5年と10ヶ月の有効期限となった。 それで555฿。 およそ1年間100฿計算。以下手順。 健康診断書の取得 近くの小さめの医院、クリニックに行って健康診断書を作成してもらう。 google map では clinic で検索するといい。 体重と血圧を測るだけで終わる。 60バーツだった。 イミグレーションオフィスで住所証明 Residennce Certificate を取得 チェンライの運転免許の更...
- 2678年10月16日2018年を止めて、2678年にする。 そもそも切支丹(クリスチャン・キリスト教徒)でもないのに切支丹暦を使うのはどうにもおかしなことである。 大東亞戦争時までは使われていた日本の皇紀の方がまだましではないか。 タイでは佛暦が使われている。 今年は2561年。 日本の皇紀・通算暦は2678年。 記事の日付、アーカイブの日付、カレンダーヰジェットの日付などを總て日本暦=日暦で表示するようにしてみた。日本は切支丹によって殆どが蝕まれていたアジアを解放することのできた唯一の非切支丹國である。 日本は世界の非白民族の最後の希望であった。盟主であった。 人種差別を廃することを世界で最初に國際会議で提案し、戦によって実現してしまった國である。 タイ、ベトナム、カンボジア、ラオス、マレーシ...
- 2678年10月15日今住んでるところはTrueの光ファイバー799฿のプラン50M/20M が入っている。 ダウンロード実測50M弱でている。 ところが、11ヶ月目なのだが、TOTに変更するとか言っている。 電柱にはTOTの回線が来ている。 他社はTOTの回線を借りてサービスを提供しているのではないか。それであらためてタイの光ファイバー系のインターネットサービスを調べてみた。タイのインターネットサービスの比較にはこのサイトがわかりやすい。
- 2678年10月14日チェンマイ方面に向かいながら、パイに抜ける道を当てにしたが、泥道になって引き返すことになった。乾季なら行けたかもしれない。 雨季のバイクの旅は舗装道路から外れると泥々ベチャベチャ道になりがちであるから早めに断念して引き返す決断を下したほうが良い。そんなことが何度もあった。 地図上では通れそうな道も泥水たまりがあったり、急坂滑ったりで断念する。 舗装道路に戻って遠回りする。
- 2678年10月14日メーホンソンの南70kmのクンユアム Khun Yuam という町に日本軍ゆかりの記念碑があると聞いて、思い出したように南行開始した。 途中の路傍に日本兵士鎮魂之塔があった。2000年11月に倉敷の人が建てたらしい。まわりはとうもろこし畑が広がる。 その辺から、道端に Thai-Japan Friendship Memorial Hall が後5kmとかの案内板が、クンユアムに近づくにつれてしばしば立っていた。 タイ日友好記念館の敷地にて、 クンユアムからチェンマイ方面への道があるのだが、先にもうすこし南 30km にあると...
- 2678年10月13日リタイヤメントビザの期限が一ヶ月後に迫り、更新可能となった。 それでパイから100kmのメーホンソンのイミグレーションオフィスに更新に行った。 パイでも10日後になら手続きできる予定であったが、それまで待てないわけがあった。 それでバイクで山道アップダウンしながらメーホンソンのイミグレーションオフィスに著いたのが水曜日の午後4時頃。 その時は下見だけで、一泊して翌日に当地の銀行で残高証明書を発行してもらった後に再訪手続きする予定であった。 建物に入るまでもなく、外に黄色いポロシャツ著た男が2人いて、退職ビザの更新手続きに来たことを告げると、オフィサーがチェンライに行っているから来週の月曜日(5日後)に來いといわれて門前払いになった。こういう場合は、...
- 2678年10月10日10月の9日から17日までメーチャン Mae Chanの支那寺で斎菜食タダ飯祭りをやっている。 タダとはいっても出る時に透明の賽銭箱にお金を入れていく人は多い。 20฿入れる人もあれば200฿入れる人もある。 豆ごはん、焼きそば、茸料理等など。甘いデザート、飲み物は氷水の他、コーラなどもある。タイ語で ギン チェー というと、斎食の意味。場所はここ ศาลเจ้าแม่จัน
- 2678年9月23日LAVIE Direct HZ(PC-GN276W1AA) を買ってしばらくして、 画面をロックし、自動的に画面が消灯したあと、ロック解除し復帰すると、液晶画面が白くなっている現象が発生するようになった。 しばらくは様子見だったが1年の保証期間も迫るので NECのマイページにログインし、チャットサポートサービスで問い合わせてみた。 ...
- 2678年9月21日タシケントからナマンガンを経てキルギスへナマンガンでは夕刻、道路沿いの家々の前でしきりに水打ちしていた。ウズベキスタンの出國前に、余った金で紙パックジュースをたくさん買ったのだが、それがよくなかったらしく、キルギスに入ってすぐにお腹を壊して動けなくなった。小さな國境だった。
- 2678年9月21日トルクメニスタンFarab 國境 からウズベキスタンに入る。 サマルカンドを経てタシケントへ。 タシケントではパキスタン大使館に行って、ビザを申請する。 イランのテヘランでは取れなかった。 日本大使館のレターが必要で、日本大使館がそれを出さなかったから取れなかった。 ザヒダンエリアで日本人旅行者の誘拐事件があったとかで、日本大使館は日本人がそのエリアを通過することを望んでいなかった。 マシュハドのパキスタン領事館にも行ってみたがだめだった。 ザヒダン Zahedan にもパキスタン領事館があって、そこでもトライすべきであった。 後日そこを訪れたら簡単にとれそうだった。それで当初の予定になかったトルクメニスタンとウズベキスタンのビザをとり、イランから...
- 2678年9月20日イランとトルクメニスタンの國境は Sarakhs サラクを通過した。 イラン側の車の通関は、入國時に予定された出國ポイントではないということでケチつけられたかもしれないが、無事に人も車も出國できた。イランからトルクメニスタン、ウズベキスタンへ450km トルクメは2泊3日でウズベキスタンに出國している。 トルクメニスタンの通過ビザは5日有効だったか。 もう少し寄り道できたかもしれない。マリの遺跡めぐり トルクメ-ウズベク國境はここ、イランから450km2008年6月
- これまでの旅の途中で盗難、強盗にあった経歴を列挙する。● 南朝鮮の首都ソウル 金の持ち逃げ 1990年11月 ソウルのバスターミナルで南部カンジュ光州行きのチケットを買う際に、電車の中かどこかで声かけられた日本語を話す若い男が自分も光州に行くと言い、一緒に行くか、チケット買ってくるからお金よこせ、となり、素直に渡したらそのまま逃げられた。 ソウルに来たのは片道航空券で行くアメリカのビザの申請のためで、すぐに滞在していた光州に戻る予定だった。● スペイン 自転車の丸ごと盗難。 1995年 モロッコのCeuta(スペイン領)に行く船に乗るために港の町中で荷物付きの自転車を置いて歩いていて、戻ったらなかった。 しばらくして発見されたが、トラベラーズチェックなどが盜...
- 2678年9月20日オシ Osh → カザフスタンへ オシでは丁度、皆既日食がはじまった。ニセ警察官に50ドル盜られる ビシュケク Bishkek に戻ってカザフスタンのビザ申請した。 その間、ビシュケク 南部郊外でオートキャンプしていたのだが、夕刻そこに来てドアを全開して車内で休んでいると、警察服を著た男1人ともうひとりが近づいてきた。そいつは所持品検査などはじめ、財布の中身ものぞき始めた。 50USDドルが入っていたのだが、返された時にはそれがなかった。彼らは去っていった。周りは灌木がちらほら生えているような原野だった。 そんなところに警察が現れることがおかしなことであった。教訓 不審人物が近づいてきた時には車の窓をすぐに閉める...
- 2678年9月20日イシュクル湖→ソンクル湖→トルガート支那國境→イルケシュタン支那國境へ。 クル=湖。 7月半ば、朝は凍える。トルガート支那國境は第三外國人は越境不可だったような。 それでイルケシュタンIrkeshtam 國境へ向かう。