YouTube, Facebook, Twitter などのSNSサイトでの検閲はすさまじいが、図書館でも検閲焚書が行われている。 焚書図書開封 惑血の真実 「今だから知るべき!ワクチンの真実 予防接種のABCから新型コロナワクチンとの向き合い方まで」 崎谷博征 2021年3月 が宮崎県内の図書館に蔵書がなかったので、延岡市立図書館にリクエストした。 2週間後に図書館から電話があって、他の図書館(福岡県立図書館の蔵書)からの相互貸借は来年5月からしかできない、自館での購入もしない、との連絡があった。これまでに何度もリクエストしてきたが、このような拒否は...
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- 2681年6月29日現状世界中で起こっていることは、世界大戦争=コロナ世界大戦、又はワクチン世界大戦であると言える。後世の歴史家はこれを第三次世界大戦と呼ぶかもしれない。 人体への毒物注入の最大化が最終オペレーションで、今はその初期段階にある。その最終目的は人口削減、医療・薬物マフィアの利益。 高齢者の人口が減れば、国の年金支出は減るだろうが、ワクチン接種による病人の増加によって医療費支出は増える。 ワクチン接種によって、無数の死者が出ている。 ワクチンは生物化学兵器であり、大量殺人兵器、大虐殺兵器といえる。新型コロナウイルスというものがあるとすれば、生物兵器。 その起源は、アメリカと支那の共同作戦であろう。 実際には新型コロナウイルスというものは存在しないようだ。 ...
- 2679年2月25日サムヌアからベトナムの國境Ban Na Mangまでは約80kmだが、途中30kmのところにビエンサイ Viengxay という街があり、そこに洞窟が無数にある。第二次インドシナ戦争、ラオス・アメリカ戦争時にアメリカ軍の空爆を逃れるために、 パテート・ラオ Pathet Lao ປະເທດລາວ 共産主義グループが避難生活をしていた。 パテート・ラオとは文字通りではラオ族の國、タイ語でプラテー・タイというのと同じ。 ラオ國、タイ國のようなもの。 当時はまだアメリカにバックアップされた南部のラオ王國政府と、北部のベトナム共産軍にバックアップされたパテート・ラオ共産軍が戦っていた。 1964年~1973年ぐらいの間にここの洞窟群が使われているたようだ。 アメリカ軍の...
- 2679年2月23日2つの温泉浴を終え、ムアンカムを去って北へ向かうとすぐに Tham Piew Cave への案内板があったので3kmの寄り道をした。 平行通り抜けできるので良い。 ここで1時間半ぐらい費やした。 副産物は、洞窟の中ではなく、下から湧水が川のように大量に流れ出てきていて、1.5リットルボトル4本に飲用水を詰めることができたこと。 非軍人を攻撃するのはアメリカの悪癖であった。 戦争にもルールがあるのではないのか。 洞窟までは歩いて10分の上り。 洞窟内奥行きは100mもない。洞窟内には照明はない。特に鍾乳洞的な造形美もないようだ。
- 2679年2月23日ムアンソウイの朝日の後、子供たちが登校前に学校前で食べていた所で同じものを食べてみる。 5000K。 ラオスではよくありがちなのだが、これは冷たい麺、予め茹でた白麺にソースを加えて、さらに水をくわえた冷たいヌードルスープ。 寒くて暖かいものが食べたいのに冷たいのはよくないし、衛生面でも不安になる。 燃料の節約のためか、火を使いたくないのか、ラオスではよくある路傍麺食である。 1時間後、次の街の小さな市場の隣の食堂でフォーを食べる。 1万Kでうまかった。 ポンサワンの市場内のフォーがうまそうに見えて食べてみたかったが、お腹いっぱいで控えた。 ポンサワンには戦争記念碑が2つあって、どちらも囲い内には入れなかった。解説もなにもない。 丘の上にあるので街の見晴らしはいい。ムアンカムの...
- 2679年2月7日モゴックの人が、朝早く行くと凍っているところがあり、戦跡もあるというので、どこなのかと地図上を探してみたがわからない。 ミャンマー人は地図が読めない。 方向音痴である。こんなところなのだろう。 ဘားနဒ္မိုးကုတ္/217334235814117それで Google Map で Barnard Bazaar ဘားနတ်စျေး と記されているところを目指した。 朝5時に行かないといけないと行っていたが、今回はとにかく場所を見つけることが先決で何時でもいい。 バザールも週に一回とかしか開かれないらしいが、事前に何曜日なのかはわからないままだった。 1月15日火曜日...
- 2678年10月16日2018年を止めて、2678年にする。 そもそも切支丹(クリスチャン・キリスト教徒)でもないのに切支丹暦を使うのはどうにもおかしなことである。 大東亞戦争時までは使われていた日本の皇紀の方がまだましではないか。 タイでは佛暦が使われている。 今年は2561年。 日本の皇紀・通算暦は2678年。 記事の日付、アーカイブの日付、カレンダーヰジェットの日付などを總て日本暦=日暦で表示するようにしてみた。日本は切支丹によって殆どが蝕まれていたアジアを解放することのできた唯一の非切支丹國である。 日本は世界の非白民族の最後の希望であった。盟主であった。 人種差別を廃することを世界で最初に國際会議で提案し、戦によって実現してしまった國である。 タイ、ベトナム、カンボジア、ラオス、マレーシ...
- マッカーサーがトルーマンに解任されて、1951年4月19日に上下院合同会議で演説した。 その後、質疑応答があった。They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.日本は資源の供給が絶たれ、1000万~1200万の失業者が発生することを恐れた。それゆえに、日本の戦争の目的は、ほとんどが安全保障上の必要に迫られたものであった。 ...
- 2678年6月29日大東亞戰爭後、日本人に刷り込まれてきたのがアメリカ史觀。 自國を貶めるやうな發想にとらはれてゐるので、よく自虐史觀などと言はれてゐるが、元敵國側の歴史觀なので敵國史觀と云つたはうがいい。 敵國=アメリカ、イギリス、支那+朝鮮 アメリカ占領軍が表現の自由を犯す檢閲を行つて刷り込んできた「太平洋戰爭」史觀である。 アメリカ史觀と云へば良い。 東京裁判史觀と云ふ奴もゐる。この自虐史觀、アメリカ史觀は究極的には日本國内のアメリカ軍の基地がなくなるまでなくなりにくいだらう。 日本國内に居坐るアメリカ軍が怖くて自由にものが言へない状態と云ふのが現状である。 自虐史觀などといい、アメリカ史觀と正直に言へないのもこのせい。
- 2678年6月24日巷でいわゆるインパール作戦とはなんぞや? 大東亜戦争中の1944年1月の「ウ号作戦」のことをインパール作戦と呼んでるらしい。 ウ号作戦=印度解放作戦=ヒンド独立戦争 私達は日本兵がヒンド解放の為に戦ってくれた事をよく知っていました これがウ号作戦の指令原本 発送番号 大陸指第一七七六号 発送月日 昭和19年1月7日 宛名 大陸指(案) 件名 ウ号作戦ニ関スル件 大陸命第650号ニ基キ左ノ如ク指示ス 南方軍総司令官ハ緬甸防衛ノ為適時当面ノ敵ヲ撃破シテ「インパール」附近東北部印度ノ要域ヲ占領確保スルコトヲ得 - 大陸指第1776号 大陸指(案) ウ号作戦ニ関スル件この作戦指令書によれば「インパール付近東北部印度の要域を占領確保すること」とある。 インパール付近の東北部なの...
- 2678年6月19日カンチャナブリの駅前に、広大な戦争墓地 Kanchanaburi War Cemetery がある。 イギリス、イギリス帝國オーストラリア、オランダ、イギリス帝國ヒンド系の戦没者の墓石が整然と並べられている。 門には Kanchanaburi War Cemetery と書いてあるが、中立ではなく、同じ戦争で死んだ日本人の墓はひとつもない。 その隣に見えるのが Death Railway Museum と大書した博物館。 見ただけで英米人の日本攻撃宣伝施設だということは想像がつく。 実際にはイギリス帝國オーストラリア人の設立らしい。 料金所前の売店エリアにある Japan Invade Asia という展示を見ただけで、イギリス史観のプ...
- 2678年6月19日カンチャナブリのバスターミナルから真っ直ぐ川の方に歩くと、少し下流にもうひとつのJEATH戦争博物館がある。大きな寺院内の一角という感じのところにある。 これはメクロン川永久橋の近くにあるJEATH戦争博物館と展示物は似ているが、こちらの方がオリジナルで、橋の方がコピーという感じがする。 名前が JEATH War というのは、Japan English America Thailand の頭文字らしい。 Death Railway をもじったものであろう。中の展示物は以下のとおり。
- 2678年6月13日カンチャナブリの町の北側に鉄道の橋がある。 日本軍が建設した時には川の名はメクロン川であり、橋はメクロン河永久橋と呼ばれていた。 戦後1957年にフランス人の原作の The Bridge on The River Kwai というフィクション映画が流行り、クエイ川と改称されてしまった。日本軍が建てた慰霊塔 町の中心部から川沿いの道を歩いていくと、橋の手前にまずあるのが、慰霊碑。これは大東亜戦争の戦闘状態終結前の1944年2月に日本軍鉄道隊によって建てられたもの。南方各國労務者及び俘虜の霊を慰む。 この慰霊碑のすぐ隣が戦争系博物館。メクロン川永久橋 先に橋を見に行く。 先日列車で渡ったのだが、今度は歩いてみる。 ...